宮城県指定文化財の旧小関家の建つ後小路(うしろこうじ)は、白石城北、三の丸外堀にあたる沢端川に面した町並みで、現在も静かな住宅地です。
旧小関家は、後小路南側東端の屋敷で、宝暦11年(1761)の白石城下絵図に「小関右衛門七」とあります。この地は中級家中の屋敷であり、小関家は鬱蒼たる庭樹でおおわれ、前面、側面を清冽な水流が巡り、景観的にもすぐれたものがあります。
平成3年(1992)に、主屋・門・塀が小関家から白石市に寄贈されたのを機に全面的に修復されました。
屋敷・建物の形状
土橋を渡り、簡素な切妻造の棟門をくぐり、正面の土塀を曲折して表出入口(台所口)に通ずる。L型に露地を囲んだ土塀には正面に簡素な狭間が付く。式台付き玄関はないが、塀中門から露地を経て直接に正座敷の縁側に通ずる。
主屋は北面して建つ。桁行7.5間(けん)、梁行4.0間(けん)の直(す)ご家(や)で、土台のない石場建。屋根は寄棟造、茅葺で裏手に櫛形の煙出し破風(はふ)を付ける。座敷廻りは真壁造、台所廻りは大壁造となる。
上手の前面に「なかま」と呼ぶ正座敷、その裏側に「なんど」をとり、これら二室の下手に広い一室構成の「ちゃのま」(おかみ)を配した『広間型三間取(さんまどり)』の極めて簡素な間取が復元された。「なかま」の奥に「床の間」を、表側に「平書院」を付け、棹縁(さおぶち)天井を張るが、他室は天井がなく、また板敷である。
台所庭に三本の独立円柱が建つが、中央の妻壁近くの「うしもち柱」を頂点に、前後対照的に二本の柱を配し、それぞれ「うしばり(中うし)」、「どいげた」を支承する。三引き物と称して、古式な、堅牢な架構法である。なお、「うしばり」は、「ちゃのま」と台所庭との境の位置で、左右の柱間に渡した梁の中央に載り、力を均分した安定した『鳥居建』の技法となるのも注目される。
建築年代・沿革
解体時に発見された「享保15年2月12日」(1730)の墨書によって、260余年前の古建築であることが明らかになりました。
小関家と享保15年の創建期との関係は必ずしも明確ではないが、小関家の初代太右衛門元成は松前八之助家中の小関弥右衛門元直の次男で、延宝8年(1680)、松前家から片倉四代村長に嫁した少林院市子(いちこ)の方の添人として白石に来て、はじめて片倉家中となりました。元成12歳の時といいます。
享保元年(1716)には番士に編入、その後は奥方用人として活躍しました。小関家の屋敷地が当初から変動がないものとすれば、墨書の享保15年という創建時期はこの初代元成の晩年か、次の二代元友(もととも)の時代に相当すると思われます。
その平面形状、架構手法とも極めて素朴、古式で、仙台藩の250年を経た古民家のそれと殆ど異なるものがなく、農民住宅を素地として、次第に武士住宅としての体裁を整えてくる過渡的形態を示すとともに、創建年代の明らかな貴重な遺構です。
白石城下絵図
安政3年(1856)に描かれた白石城下絵図には、城内外の片倉家家臣団や一般町人の屋敷地と住居者名が詳細に記されている。この城内外を刻明に描いた絵図は、宝暦11年(1761)に作成された白石城下絵図を写した図面で、白石城北、三の丸外堀沿いに「小関右衛門七」とあるのを見つけることができる。
赤い線で囲まれた部分が旧小関家の位置
安政3年(1856) 白石城下絵図